親父の田舎で起こった事件

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特集:佐世保女児死亡


なんというか、痛ましい事件を通り越して今という時代を疑いたくなるような事件です
団塊の世代の後の時代に生まれた人たちが親になワケですが、
それはつまり高度成長期を経てバブル期の絶頂で第一線だった人たちということです。
これはとりもなおさずあの「狂った時代」に翻弄された人たちの子供たちの世界は
ゆがんでいる証拠なのではないでしょうか?
近年、さも昔からあったといわんばかりに認知されてきている援助交際という
性文化も元をたどると、この時代に行き着くのではないでしょうか
どこかの雑誌の記事で読んだのですが、確か浅田次郎だったか?
こんな内容のことを言っています。
「今、寿命が伸びて大人も若々しくなってきた。
若々しいというよりもガキなんだよな。
だから成人式でバカ騒ぎするやつらがいてもしょうがないんだよ。
あいつらはガキなんだから。
二十歳になったとしても頭の中身はようやく中学校を卒業した程度だろう」

つまり何が言いたいかというと、今の子供たちの親はまだまだガキが多いのだろう、って事
そりゃ、すべてがすべての人に当てはまることではないが、
ガキ親が多い世の中で、まっとうな大人の親は少ないのではないでしょうか?

自分の子供が公共の場でバカ騒ぎしても、その子が悪いといってしかる親はどれくらいいるでしょうか?
注意すると注意した人間のせいにして子供をしかる
(「あそこのお兄ちゃんが怒るからおとなしくしてなさい」とか)

おおよそ社会協調性に欠ける所謂非常識な感覚の親が大半を占めるこの日本で
本当に常識的な判断をすることはどれほどの損失になるのかと考えると
気が滅入ってきます(=常識的に行動するのが馬鹿馬鹿しく思えてくる)


これはあくまでも俺の憶測でしかありませんが、
なぜこの世代の親は各もこういう感覚しかもてないのだろうか、というと
おそらく高度成長期の家庭で日本総中流階級主義に呑まれてしまったからではないか、と


つまり、高度成長期の金がある時代では本当の子供の世話
(顔と顔を付き合わせたコミュニケーション)は、小遣い(=金)を与えることで
省略してきたのではないだろうか、と
親としては子供が喜ぶことをしてあげたい、とか思っていたのでしょうが
それが逆に基本的な人と人のコミュニケーション(=親子のふれあい)の方法を
判らなくしてしまっていたのではないでしょうか?
なんとなくそんな気がします
そんな親が子供を育てるときにきちんとしたふれあいができるのでしょうか?
できていないからこそ、所謂、キレる子供、というのが存在するのでしょう
もちろん、複雑になってきた社会からのストレスが子供に向けられているという事実はあります
それでも子供を守るのは親の責任であり義務です
守ることとはつまりケアするということなのではないでしょうか?
この子供の世代の事件を目にすると
これからの日本を見据えたとき非常に悲しい気持ちになってしまいます